意外にも、沖縄のお墓の歴史を見てみると、私たちが亀甲墓や破風墓のようなお墓を造るようになったのは、沖縄の歴史の中でごく最近のことであることがわかります。
今のような破風墓や亀甲墓が沖縄で出現したのは、16世紀以降のことであり、それ以前は洞窟や森の中に埋葬するスタイルが一般的だったと考えられます。そして、一般庶民が今のようなお墓を造ることが許されたのは、なんと、明治以降になってからだというのです。
風葬の風習
もともと沖縄では、今のような亀甲墓や破風墓のようなお墓を造るという習慣がなく、洞窟や森の中の、ある特定の場所に遺体を安置して、風葬をする風習を持っていました。このため、火葬の風習は歴史が浅く、本土とは違う、独自の風習を持っていたことがうかがえます。
琉球王国時代に聖地とせれていた久高島では、1960年代まで風葬が行われていたと考えられています。
沖縄は地理的な位置も影響してか、本州とはまた違った文化、歴史の流れを持っています。風葬の歴史があったということは、それほど一般的に知られていることではないかもしれません。
このような独自性が、現代の沖縄のお墓の風習にも、強い影響を与えているものと思われます。
士族や王族のみがお墓を持つ
1500年代に入ると、初めて沖縄に、現代のような亀甲墓や破風墓のようなお墓のスタイルがみられるようになったと思われます。初期に登場したと思われるお墓は、第二尚氏で琉球国王のお墓である玉陵(たまうどぅん)です。
こちらのお墓は、現在の一般的なお墓である破風墓のデザインをしています。破風墓は今でも沖縄県内で非常にポピュラーな形の一つですが、この玉陵にルーツを持っていることがうかがえます。
そして、もうひとつ、沖縄のお墓でポピュラーなデザインである、亀甲墓の登場は、1600年代以降であると考えられています。
亀甲墓のデザインは、昔の中国から伝わっていたと考えられています。その証拠に、中国のほうでも、沖縄の亀甲墓のようなデザインのお墓を見ることができます。沖縄の初期の亀甲墓は、伊江御殿墓(いえうどぅんばか)や護佐丸の墓などが有名です。
ただし、この時代にお墓を造るということは、この時代には、王族、士族にしか認められておらず、一般庶民がお墓を持つまでには至りません。
明治に入って庶民も墓を持つ
明治に入り、廃藩置県が行われると、ようやく一般の人たちがお墓を持てるようになったのです。
今では、お墓を持つことは、一般的でごく当たり前のこととなり、なくてはならないものとなりました。しかし、沖縄の歴史の中では、庶民が今のようなお墓を持つということはそれほど古い習慣ではありません。
特に、一般庶民が持つということは、沖縄の長い歴史の中で、ごく最近のことと言えるでしょう。
まとめ
沖縄のお墓の歴史を駆け足で見て参りました。沖縄の長い悠久の歴史の中では、今のようなお墓の風習は意外と古くないことがわかりました。
琉球国王がいまのような形のお墓を持つようになったのは16世紀以降のことで、それ以前は洞窟や、森の中の特定の場所に安置していたというスタイルをとっていたことがわかります。
そして、16世紀にはいると、国王をはじめ、士族などの上流階級が今のような形態のお墓を持つようになります。
そして、明治に入り、ようやく一般的な人々も、亀甲墓や破風墓などのお墓を持つことが許されるようになりました。